ウォーキング 18

前号ブログ(ウォーキング 続17)での「からだを冷やした事で免疫力が低下した」は、あくまで推測です。湿疹や激しい咳込みと言う体外に現れた症状と、科学的な(あるいは、科学的匂いのする)言葉である免疫を単語の上で結び付けものです。当たらずとも、遠からず、の内容だとは思っていますが。

湿疹や激しい咳込みは目に見える事象で、そこから症状を考えて対応する方法は、現象からのアプローチで、私達が日常で普通に行っています。一方、免疫と言う生体の機能から症状を導き出す過程は、演繹的と言えます。
仮に、前者を現象的アプローチ、後者を演繹的アプローチ、と呼びましょう。

現象的アプローチとして、私が思い浮かべる代表例は「経絡」と言う概念です。何百年、何千年の期間を費やして、人体の内外の現象をつぶさに観察し、個別の現象の関連性を認識し、あるいは訂正して、さまざまな人々の検証を経て、体系に組み上げた。もっとも、経絡についての専門家ではないので、私の持っているイメージですが。そのため、経絡は唯一ではなくて、いくつかの異なる組合せや経路が有るのかも知れません。

もう一方は、演繹的アプローチです。こちらはどこから話を始めるのでしょうか。電子、原子、原子核の振舞いレベルから、からだの症状を説明するのでしょうか。それとも、免疫と言うあるレベルの事象から始めるのでしょうか。本来なら、人体についての全てが詳細レベルで解明されて、初めて成り立つアプローチです。

では、人体はどの程度まで解明されているのでしょう。例えば、私のブログ「結合組織 1」では、からだの器官としての仕組みが最近になって確認された、事を紹介しています。Ida Rolfが結合組織に着目した時代から50年以上経過していますが、まだ新たな発見があります。人体全体では一体どこまでが解明されているのでしょう。

人体(あるいは、生体)については、私達にはまだ見えていない事がかなりある様に思います。言い換えると、100%の状態が分からない。100%が分からないから、今何%まで解明されているのか分からない、と言う事です。

医療(medicine)やロルフィングもその中に含まれる代替医療(alternative medicine)は、現象的アプローチと演繹的アプローチを、うまく使い分けてコントロールされていると思います。

でも、時には、ヒトを納得させるためにそれらしく、演繹的アプローチ風を装って、使っている様な事例は無いでしょうか。私は最近結構そう言った事が、世の中には有る様に感じています。

その様な現状の認識を持ちつつ、誤った方向に進まない様に、さまざまな判断をする必要を感じています。